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アニメ「ネコぱら」から「人間」概念を考える――「ネコ」と「人間」を同等に扱う危険性について

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ネコぱら

 

2020年3月に放送が終了してから2ヵ月が経過したアニメについて記事を書くのも躊躇われたのですが、とあるきっかけから、頭の中で構想を描きつつも筆が止まっていたこの記事を書き上げて公開することにしました。 

さて、放送終了から少し時間が経ってしまったので、細かい内容は忘れてしまった視聴者も多いかもしれませんが、アニメ「ネコぱら」を見ていて、その独自の「ネコ」概念に引っかかりを覚えた視聴者は少なからず存在したのではないかと思います。

このアニメにおける「ネコ」は、ねこじゃらしに反応する、魚が好物、水が苦手など、現実のネコと同じような(ステレオタイプの)習性を持つものの、耳と尻尾以外は人間と同じ容姿を持ち、人間の言語を使いこなして、人間社会に溶け込んでいます。それにもかかわらず、「ネコぱら」では頑なにこの種族を「ネコ」と呼ぶものですから、現実のネコに慣れている私たち視聴者は混乱するばかりでした。

そのため、このアニメは、一見したところ、私たちの「ネコ」概念を揺るがしているように見えます。しかし、それと同時に、この「ネコ」概念はそのまま「人間」概念に逆噴射して、「人間とは何か」と私たちに問いかけているようにも思われるのです。この記事では、この点について若干の考察を行いたいと思います。

※ 私(筆者)は原作ゲームも含めて、テレビアニメ以外の関連作品には触れていません。

※ この記事において「人間」「人」「ヒト」は基本的に同じ意味で使用しています。

※ フィクションに対するナンセンスな記事であることはもちろん自覚しています!

 

 

1.鈴制度とそれに対する違和感

 

独自の「ネコ」概念それ自体から派生したものとして、このアニメで最大の引っかかりを覚えたのは「鈴」制度です(第1話、第10話を参照)。

これは、「ネコぱら」の世界における「ネコ」は、外出時には、原則として飼い主と一緒に行動しなければならないが、例外的に「鈴」を付けたネコは飼い主が一緒にいなくてもネコだけで行動できる、という制度です。この「鈴」の資格の取得・更新には試験への合格が必要で、鈴なしネコは捕まってしまうそうです(捕まった際の罰則の有無や内容は不明)。

また、バニラによれば、鈴制度および試験について、「鈴は人間社会でやっていける証明」、「人間の常識やルールを理解して、ネコの習性や本能に負けず、理性的な行動をできるかが試験内容」と語っています(第10話)。

 

このような「鈴」を課せられたネコたちを見て、何らかの違和感を覚えたりゾッとしたりしませんでしたか? 

こういった感覚を言葉にすれば、「『ネコ』に義務を課して人間社会に溶け込ませようと強制するのは、おかしなことではないのか? 鈴制度は非道的ではないのか? 『ネコ』にも人間と同様に自由に生きられる『権』があるのではないのか?」というような疑問になるかと思います。

 

 

2.差別の歴史と差別是正のためのメルクマール

 

上記の感情はよく理解できます(というか、これは鈴制度を初めて知ったときに筆者が抱いた感想です)。

しかし、よくよく考えてみれば、「ネコぱら」の世界観において、「人間」と「ネコ」を分かつ鈴制度は、人間が人間であるために必要なものではないでしょうか。別の言い方をすれば、「ネコぱら」の世界観において、「人間」と「ネコ」を同等に扱うのは危険ではないでしょうか。

 

そもそも、人類史は差別の歴史です。民族、肌の色、出自、身分、財産、性別、性的指向などによる差別は、つい最近まで継続し、あるいは現在も残っているのです。たとえば、アメリカにおいて奴隷制が廃止されたのは1865年(合衆国憲法修正13条)、日本やフランスにおいて女性に参政権が認められたのは1945年です。日本では同性カップルの婚姻(あるいは類似の制度)は現在でも認められていません。

1789年にフランス人権宣言が「人は自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」と宣言してから約230年、1948年に世界人権宣言が「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」と宣言してから約70年が経過しましたが、差別が是正されるまでの道のりはまだまだ長そうです。

 

とはいえ、差別是正の原点は、上記のフランス人権宣言や世界人権宣言の文言からも伺えるように、「人が人であること」にあります。このことから、「人が人である故に人は平等であって差別されない」と言われるのです。これを別の言い方にすれば、「生物学的な意味においてヒトとして生まれたからには、法的・政治的・社会的な意味において人間として平等であって差別されない」と言うことができます。

つまるところ、「人間として平等であって差別されない」ためには「生物学的な意味においてヒトであること」が肝要なのです。私たち人類は「生物学的な意味においてヒトであること」を差別是正のための唯一絶対のメルクマールとすることによって、差別是正を進めてきたのです。

 

 

3.「人間」概念の基準を変動させることの意味

 

ここで「ネコぱら」に話を戻します。

「ネコぱら」の世界観において、「人間」と「ネコ」とが同等の扱いを受けていないことや「ネコ」が人間社会に溶け込むよう強いられていることに違和感や憤りを抱くことは、感情的にはよく分かります。

しかし、私たち人類が「生物学的な意味においてヒトであること」を唯一絶対のメルクマールとして差別是正を進めてきたことを踏まえると、「ネコぱら」の世界観において「人間」と「ネコ」を同等に扱うのは危険なことです。というのも、思い返せば、私たちが「ネコぱら」の世界観において「人間」と「ネコ」とを同等に扱うべきだと感じるようになった理由の一つは、ここの「ネコ」たちが、耳と尻尾以外は人間と同じような容姿を持っているからです。

 

しかしながら、「人間と同じような容姿」と「生物学的な意味のヒト」の間には見逃せない違いがあります。なぜなら、「人間と同じような容姿を持つ存在に対して、法的・政治的・社会的な意味において人間として平等であって差別されないことを認める」ならば、「生物学的な意味においてヒトであること」という差別是正のための唯一絶対のメルクマールが崩れてしまうからです。

換言すれば、ここにおいては、法的・政治的・社会的な意味での「人間」概念の基準には、①「生物学的な意味においてヒトであること」だけでなく、②「人間と同じような容姿を持っていること」も加わっているのです(①または②のいずれかを満たせば「人間」であると認められることになります)。

この場合、①②の両方を満たす「人間」が優位に置かれ、①または②のいずれしか満たさない「人間」が劣位に置かれるのではないか、と考えるのは私の杞憂でしょうか。

つまり、②「人間と同じような容姿を持っていること」において私たちが念頭に置いてしまうのは、健常者のはずです。おそらく多くの人々が無意識のうちに、たとえば四肢の全部または一部が欠損しているような身体障害者や先天的に体毛が非常に多く皮膚がほとんど見えないようなヒトを②から外しているのではないでしょうか。法的・政治的・社会的な意味での「人間」概念の基準に、①「生物学的な意味においてヒトであること」だけでなく、②「人間と同じような容姿を持っていること」をも持ち込む場合、健常者が念頭に置かれた②を満たしていない①だけの存在を、「二等人間」と見なしてしまわないでしょうか

また、「ネコぱら」における「ネコ」は、人間の言語を使いこなすほどの知能があります。こういった存在も「人間」に含めるべきだ、と主張する場合、その裏には「言語を満足に使えない知的障害者認知症患者といった存在は『人間』ではない、あるいは『二等人間』に過ぎない」という思考が存在するのではないでしょうか。こういったある種の知能主義は、知的障害者認知症患者のような人々を差別する思考の延長にあるのではないでしょうか。

 

以上を踏まえると、「人間と同じような容姿や知能を持つ存在に対して、法的・政治的・社会的な意味において人間として平等であって差別されないことを認める」ことには非常に慎重にならざるを得ません。そこには、私たちがステレオタイプの人間として思い浮かべる健常者を「一等人間」として扱い、障害者のような人々を「二等人間」として扱う思考が隠れている可能性が大いにあるからです。

そうならないためには、やはり、「生物学的な意味においてヒトであること」を「人間」概念の唯一絶対のメルクマールとして固持すべきであるように思われるのです。「生物学的な意味においてヒトとして生まれたからには、法的・政治的・社会的な意味において人間として平等であって差別されない」というテーゼには、生物学的な意味のヒトであれば誰であれ切り捨てられたり軽んじられたりしてはならないという人類の覚悟が込められているのです。

したがって、「人間」社会における差別是正の覚悟を重く見るならば、「ネコ」を「人間」と同様に扱わないためにどこか差別的に見える「ネコぱら」の世界観も許容すべきように思われるのです。

 

 

4.補足――容姿の「好ましさ」について

 

ところで、大抵の人間は、現実世界におけるネコの容姿も、「ネコぱら」世界における「ネコ」の容姿を好ましく感じていると思われます。だからこそ、「『ネコ』にも『人間』と同等の権利保障を!」なんて思うのではないでしょうか。

しかし、人間と同等の知能を有する人外の存在が、多くの人間にとって不快な容姿をしていたとすれば、彼らのために権利保障の主張を行ってくれる人々は存在するのでしょうか。このような主張を行う人々が全く存在しないだろうとは思いませんが、「ネコ」に比べると格段にその人数が減ることは容易に想像できます。

こうしてみると、長らく愛玩動物として人間に飼われてきたネコの容姿の「好ましさ」の強さを感じずにはいられません。

なお、人間と同等の知能を有するが人間とは全く異なる容姿を持つ存在(「エビ」と蔑称されるエイリアン)に対する差別について扱った有名な作品として、映画「第9地区」(2009年公開)があります。

第9地区 (吹替版)

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また、人間に近い知能を持ちつつも「肌が緑色で、いつもよだれを垂らしているなど、現代人の美的感覚からすると相容れない(現実社会にそういう人間がいたらぎょっとする)」容姿を持つフィクション上の存在としては、ゴブリンがいます。これについては、別の方が書いた記事があります。

news.yahoo.co.jp

 

 

5.おわりに

 

最後に、下書きのまま放置される予定にあったこの記事を完成させようと思ったきっかけについて記しておこうと思います。

そのきっかけとは、ラブドールに関する以下のブログ記事を読んだことです。

note.com

詳しくはリンク先を読んで欲しいのですが、この記事は「人間」と「人形(ラブドール)」の異同に言及しています。つまり、私は、私の記事と同じく「人間と似たような容姿を持つ存在」をテーマとする上記のブログ記事に触発され、自分の記事を完成させる気になったのです。その意味で、上記のような記事に出会えたのは僥倖でした。

 

なお、「人間」と「人間と似たような容姿や知能を持つ存在」の異同は、伝統的にはSF作品においてロボットやAIやアンドロイドという形でテーマとされてきました。また、この問題は、最近では現実的な課題として学問の上でも検討されています。

たとえば、栗田昌裕「AIと人格」(所収:山本龍彦〔編〕『AIと憲法』(日本経済新聞出版社、2018年)201頁以下)や、大屋雄裕「ロボット・AIと自己決定する個人」(所収:弥生真生・宍戸常寿〔編〕『ロボット・AIと法』(有斐閣、2018年)59頁以下)といった文献を読んでみるのも良いかもしれませんね!

AIと憲法

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ロボット・AIと法

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