今さらながら映画「屍人荘の殺人」を観てきたので感想を
神紅大学のミステリー愛好会に所属する葉村譲(神木隆之介)と明智恭介(中村倫也)は学内の事件を推理する自称【ホームズ】と【ワトソン】。しかし葉村はミステリー小説オタクなのに全く推理が当たらない万年助手。事件の匂いを嗅ぎつけては首を突っ込む会長の明智に振り回される日々を送っていた。
そんなある日、2人の目の前に剣崎比留子(浜辺美波)という謎の美人女子大生探偵が現れ、ロックフェス研究会の合宿への参加を持ちかける。部員宛てに謎の脅迫状が届いたこと、去年の参加者の中に行方知れずの女子部員がいることを伝え、葉村と明智の興味を引く。
3人が向かった先は、山奥に佇むペンション【紫湛荘(しじんそう)】。そこに次々と現れるクセモノだらけの宿泊者。しかし葉村たちは想像を絶する異常事態に巻き込まれ、立て籠もりを余儀なくされる。一夜が明け、一人の惨殺死体が発見される。それは死因もトリックも全てが前代未聞の連続殺人の幕開けだった――
この記事は、映画「屍人荘の殺人」の感想記事です。ネタバレにはご注意ください。ちなみに、2021年6月現在、この作品はAmazon Prime Videoで観られます(追記)。
原作未読・映画未観劇の方がいらっしゃれば、「1.はじめに」までで読み止めてください。その時点で興味が湧き、映画を見たくなったり原作やコミカライズを読みたくなったりした場合には、重大なネタバレを被ることになるので、「2.キャスティングとキャラクター設定」以降は読まないようお勧めしておきます。
1.はじめに
1)タイミングを逃したけれども
さて、この映画は、2019年12月13日が公開日なので、封切から1か月以上経ってから観るのはもちろん、わざわざ感想記事を書くのも時宜を逸した感はあります。
しかし、映画館に足を運んで映画を見たのは1年半ぶり(2018年夏の「カメラを止めるな!」以来)だったので、せっかくの機会ということで、記事を書く次第です。
2)原作小説について
映画「屍人荘の殺人」は、同名の小説(今村昌弘著、創元推理文庫)を原作としており、最近、書店でその帯を見かけたところによれば、シリーズ累計50万部が売れているらしいです。推理小説としては異例の売れ行きです。
そもそも、この作品は、原作小説の段階から非常に高い評価を受けていました。この原作小説は、本格ミステリ(トリックやロジックを主眼とする推理小説)を募集する鮎川哲也賞という新人賞の正賞受賞作で、刊行されるやいなや、その年の「このミステリーがすごい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「本格ミステリ・ベスト10」「本格ミステリ大賞」の4つで第1位を獲得しました。
原作試し読み(PC版):https://binb.bricks.pub/contents/31ec98d6-8805-4fcc-95ce-c31d881bdefb_1568772888/reader
3)本格ミステリの映画化について
そもそも、本格ミステリは、広い意味のミステリー(サスペンスや警察小説などを含む)に比べると、映像化されにくい傾向にあると思われます。
というのも、本格ミステリは、トリック(謎)とロジック(謎解き)を主眼とするので、物語の序盤に殺人が起き、それ以降はずっと、あーでもないこーでもないと証拠探しと脳内思考による犯人捜しが行われることが少なくありません。つまり、アクションや冒険といった派手な動きや、ヒューマンドラマ・恋愛モノのように喜怒哀楽ある心の動きは重視されませんので、どうしても物語の大部分が「地味な画」かつ「ドライな印象」になりやすく、映像化に向いていないのです(たとえば、SPドラマ「がん消滅の罠」は映像化にあたり大幅に脚本に手が加えられ、文字通り「ドラマチック」な仕上がりになっていました。反対に、原作に忠実に、殺人などの重大事件が起こらず日常の謎をテーマとしたにもかかわらず、多大な人気を博したアニメ「氷菓」はその例外と言えるでしょうね。ドラマ「アリバイ崩し承ります」についても、原作小説では安楽椅子探偵でしたが、ドラマでは探偵(浜辺美波さん)が現場に出かけていました)。
しかし、本格ミステリであっても、ハラハラドキドキする緊張感が生まれるパターンがあります。その王道パターンは、ずばり「連続殺人」です。メインキャラクター(だと思っていた人物)が次に死ぬかもしれないという緊張感、そして繰り返される殺人それ自体は、まさに映像化向きです。この「屍人荘の殺人」も連続殺人が起きるので、この王道パターンに従っていると言えます。
とはいえ、この作品は、それ以外の「仕掛け」によっても「緊張感」と「映像映え」を生み出しています。この「仕掛け」が何なのかは、この作品の魅力の一つなのでここでネタバレする訳にはいきませんが、しかし、その「仕掛け」が作品に緊張感と映像映えを生み出し、また犯人の用いたトリックにも活用されています。
原作小説に対する高評価はもちろん、この「連続殺人」と「仕掛け」の映像映えという点も考慮されて映画化に至ったのではないかと思っています(もちろん、「映像映え」という点では、ルックスと人気に優れた役者を用意できるか否かというキャスティングの観点も重要なのですが)。
4)小説→映画
もう少しだけ個人的な話を。本当にどうでもよい話なので5)にスキップしても大丈夫です。
上述の通り、原作小説『屍人荘の殺人』は非常に評価の高い作品なので、本格ミステリファンの末席の端っこに小指を引っかけている身としては、原作小説は読まなければならないと思っていました。しかし、私は購入する本は文庫と決めているので、2017年の単行本の刊行から待つこと2年、2019年9月に文庫化されてようやく原作小説を手に入れました。
しかし、本業だったり、アニメだったり、漫画だったり、このブログが忙しくて、また何より心の余裕がなくて、ここしばらくは小説自体から離れており、『屍人荘の殺人』もその例外ではありませんでした。
そんな折、2019年12月13日に映画が公開されました。「公開初日、少なくとも公開から1週間以内には観に行きたい!」と思っていたのですが、原作小説を読んでいなかったので、どうしても観に行けませんでした。というのも、私は「原作小説より先に映画を観ると、その後に原作小説を読む気を失くす」病気(?)なのです。そのため、先に原作小説を読みたかった私は、ズルズルと原作小説を読まないまま、すなわち映画を観に行かないまま、年を越してしまいました。
しかし、先日、ようやく時間と気持ちに余裕ができた日ができました。そこで、朝に原作小説を読み、昼に映画を観に行くという計画を立て実行しました。今振り返れば強行日程だったなあと思うのですが、読んだ記憶が鮮明なうちに観に行けたのは面白い体験でした。
5)何を書く?
私は映画のレビュー記事は事前に見ない主義なので把握していませんが、公開直後から相当数の記事がネット上には溢れていると思われます。
そんな中、公開からしばらく経って何番煎じになるかは分かりませんが、原作と映画の比較を中心に感想を書いていきたいと思います。その際、原作原理主義者にならないことに注意しつつ、映画製作者の脚本構成や演出の意図を探ってみようと思います。
※ 映画は1回しか見ておらず記憶が朧気なので、誤りや不正確な記述があるかもしれませんので、ご注意ください。
※ 原作小説も1回しか通読しておらず、いちいちチェックできていないので、誤りや不正確な記述があるかもしれませんので、こちらもご注意ください。
*****以下、ネタバレ注意!!*****
2.キャスティングとキャラクター設定
1)メインキャラクターのキャスティング
葉村譲(演:神木隆之介)、明智恭介(演:中村倫也)、剣崎比留子(演:浜辺美波)のキャスティングについては、なんの違和感もありませんでした(強いて言えば、比留子の髪はもう10cmくらい長い方が原作に忠実だったと思いますが)。
違和感がなかった要因として一番大きのは、間違いなく、原作小説を読む前に既に映画のキャスティングを把握していたからだと思います。そのため、宛書のような状態で原作小説を読んでいました。とはいえ、仮に、原作小説を読む際にキャスティングを把握していなかったとしても、人気と実力を兼ね備えたこの3人のキャスティングには賛成です。
ところで、映画を観た人の一部には、中村さんの扱いに不満を感じた人がいるように見受けられます。たしかに、原作・あらすじや監督・脚本家ではなく、役者をきっかけとして映画を観に行くタイプの人たち(つまり俳優の熱心なファン)は、この映画の展開には不満を感じたに違いありません。しかし、私はそういう人ではないので、まったく問題ありませんでした。
2)メインキャラクターのキャラ設定
3人のキャラ設定については、少々指摘しておくべきことがあると思われます。
葉村譲(演:神木隆之介)
葉村は、原作に比べると、少々コミカルなキャラになっていました(『このミス』のインタビューか何かで神木さん本人も言及していました)。
葉村は、原作小説においては、キャラクターと言えるほどの強いキャラはないように見受けられましたが、それでも物語の語り手(一人称視点)として存在感があります。しかし、三人称視点の映画化に際しては、原作小説のままだとキャラが弱くなってしまいます。そのため、コミカルなキャラ設定になったのだと思います。
また、同様の理由から、映画の葉村は、ことあるごとに比留子を見て「可愛い」と心の中で連呼してたり、気絶中の比留子から唇を奪おうとしていました。語り手を葉村とする原作小説の書き方から見れば、妥当な方向へ膨らませたキャラ設定かと思われます。「死体を運んだらキスしてあげる」のフリにもなっていましたしね(しかし、映画では、意図せずエレベーターが1階に降りてしまった混乱のために、約束を果たしたにもかかわらずキスが有耶無耶にされてしまいました)。
そして、映画では「推理ベタな万年助手」というキャラ付けまでされていました。原作では葉村は、探偵をやりたいなんて言っていなかったと思います。
さらに、原作小説では葉村は経済学部でしたが、映画では毒(ウイルス)の説明をするために、理学部という設定になっていました(その分、原作でその役割を担っていた重元の出番が減りましたね笑)。
明智恭介(演:中村倫也)
この映画について個人的にベストアクター賞を贈呈するとしたら、中村さんに差し上げます。一番、原作に忠実な、そしてそれを適切に発展させたキャラ設定と演技だったと思います。
明智は葉村と同じく映画化に際してコミカルなキャラになっていたのですが、原則小説において既にコミカルな側面があったため、これはむしろ歓迎すべきことでした。
映画オリジナルで追加された、「事件はまだ起きていないのに犯人が分かった」という明智の最期の推理も、「いざ事件になるとこの人は鋭い閃きを発揮する――ことがある。発揮しないこともある」(文庫25頁)という彼の特質に沿ったものでした。
原作では3回生なのに、映画では7、8回生くらいとなっていたのは、中村さんの年齢(公開日時点で32歳)に近づけたからだと思います。それに、そうした方が、ミステリー愛好会なんて立ち上げて事件に首を突っ込むような変人には合っています。
剣崎比留子(演:浜辺美波)
メインキャラクターの中で一番評価に困ったのが、比留子です。
そもそも、原作小説においても、比留子のキャラは最後までフワフワと不安定で、掴みどころがないように見えました(公開前テレビ特番で浜辺さん自身もそのような旨を語っていました)。仮に原作小説に忠実に演じるとしても、役者は苦労するだろうなと思うキャラクターです。
そして、比留子は、映画化に際しては、より変人なキャラ設定になっていました。白目を向いたり、相撲の型をしたり……。原作のキャラは不安定でしたが、むしろ常人寄り、社会的に描かれていたので、思い切った方針転換です。
しかし、探偵役の典型的なキャラは、エキセントリックな変人というのがミステリの相場です。そのため、映画しか見ていない人は、「探偵とはこんなものだ」としか思わないでしょうし、原作既読者から見れば、映画の比留子は、妥当と言えばまあ妥当な、許容できる範囲内のキャラ設定だったのではないかと思います。
3)その他の主要登場人物のキャスティングとキャラ設定
その他の主要登場人物の設定については、大きな変更がありましたね。私自身は、メインキャストの3人とは違って、その他の主要登場人物のキャスティングについては、原作小説を読んだ時点では把握していませんでした。
進藤歩(演:葉山奨之)、星川麗花(演:福本莉子)
この2人については、ピッタリなキャスティングとキャラ設定だったと思います。
名張純江(演:佐久間由衣)、下松孝子(演:大関れいか)
この2人が最初に登場したときは、大変驚きました。だって、原作小説では、「俺は女性陣があまりにも美人に偏り過ぎているのが密かに気になった。今日は美人としか会っていないような気がする」(文庫61頁)、「〔名張について〕鋭い空気をまとった、理知的な印象の美人」(文庫48頁)、「下松もまた美人だった」(文庫65頁)なんですよ! もちろん、美醜に関する価値観は個人的なものですが、少なくとも下松については、映画上で明らかに七宮に邪険にされていたじゃないですか!?
とはいえ、映画では合宿参加者には(フリーの身の)美人がいないために、七宮と立浪がロックフェスにて女漁りをして静原に会うという流れになるので、彼らの行動を理由付けるためには、必要なキャスティングでしたが。
あと、名張については、たしか原作では眼鏡をかけていたという情報がなかったはずなので、映画オリジナルですよね?
重元充(演:矢本悠馬)
なんというべきか、もっと汚いオタクを想像していました(無精ヒゲを生やして汗を大量に流しているような……)。しかし、映画では中国の坊ちゃまみたいなぽっちゃり君(偏見)でした。とはいえ違和感はありませんでした。部屋に籠ってゾンビ映画を観ながら武器を振り回すシーンなんかは良かったです。
静原美冬(演:山田杏奈)
原作では同じサークル内の合宿参加者でしたが、映画では、ゾンビから逃れて偶然ペンションに留まることになったロックフェス参加者に改変されていました。
彼女は、原作では遠藤沙知の幼馴染という設定でしたが、映画では遠藤沙知の妹(高校生?大学生?)という設定でした。「沙知さんと私は近所に住んでいて、子供の頃から本当の妹のように可愛がってもらいました」(文庫350頁)という原作における関係性は、彼女の動機を基礎付けるには少し弱いかなと感じていました。
私にそのような関係の人物がいないだけでピンと来ないだけなのかもしれないですが、やはり一般的には、「幼馴染」よりも、「血肉を分けた姉妹」の方が、動機として共感を得やすいのではないかと思います。その意味で、良い方向の原作改変だったと思います(そして、彼女も含めたキャラ設定の変更とストーリー展開の変更は、すべてはこの改変に起因するとも言えるかもしれませんね)。
ところで、映画にて、ゾンビの発生を予期し得なかった静原は、ゾンビ発生による立て籠もりに乗じなくても事件を実行するために、ロックフェスにて七宮らにナンパされ、ペンションにお持ち帰りされる必要がありました。ここには、いくつかの前提条件が必要になります。とりあえず、①ロックフェス研究会が紫湛荘にて合宿を行うことを静原は把握していたこと、②合宿参加者の女性が魅力的でないまたは彼氏持ちなために、七宮らはロックフェスにて女漁りをすること、③静原は自身が七宮らにお持ち帰りされる自信があったこと、の3つが挙げられます。
①については、例年、ロックフェスが開催されるタイミングで同じペンションにて合宿が行われることを姉から聞いていたら十分予測が立てられます。②については運任せですが、③については、昨年「弄ばれた」遠藤沙知と姉妹関係にあるならば、静原冬美は七宮らの好みに適っている可能性が相当程度あります。もっと言えば、静原は自分自身の容姿に自信があったのかもしれませんし、一般的に言っても静原役の山田杏奈さんは優れた容姿を持っていると言えるでしょう。その意味で、山田さんのキャスティングについては、文句はありません。原作に照らしても、「清楚という表現がしっくりくる黒髪の少女」(文庫49頁)にピッタリです。
高木凛(演:ふせえり)、出目飛雄(演:塚地武雅)
この2人については、一番驚いたキャスティング(というかキャラ設定の変更)でした。
この2人が登場する前から、その兆しはありました。バーベキュー時の記念写真の撮影時に気付いたのですが、やはり原作に比べると人数が少ない。登場人物を減らす方向で改変したのかな?と思って見ていたら、なにやら合宿参加者とは別に、3人もペンションに逃げてきたではありませんか。自己紹介によれば、それぞれ、静原美冬、高木凛、出目飛雄と名乗るではありませんか!
静原は措くとしても、高木と出目はオバサン・オジサンじゃないですか! 思い切った原作改変です。……もちろん、ふせえりさんが「ボーイッシュなショートヘアとくっきりとした目鼻立ちが印象的な美女」(文庫49頁)かどうかについては、極めて主観的な事柄ですが。
ふと映画を観ながら思ったのですが、初登場時にたしかに2人は自己紹介をしたのですが、大学生ばかりのペンションに中年男女が飛び込んできた、という展開からすれば、まるで2人は夫婦のようでした。原作読者の私も映画を観ながらそう思ったので、原作未読の方もある程度の人が勘違いしたのではないのでしょうか?
ところで、出目は、原作小説では肝試し時にゾンビ化したとみられ、そこで物語から退場します。一方、映画では、ロックフェスから命からがら逃げてペンションに立て籠もることができたのですが、実はゾンビに噛まれていて、数時間後にペンション内にてゾンビ化し殺されてしまいます。(映画にて比留子や静原が言及していたかどうかは覚えていませんが)この出目のゾンビ化は、ゾンビ化するまでの時間の目安を彼女らに提供する役割を担っていますね。
七宮兼光(演:柄本時生)、立浪波流也(演:古川雄輝)
七宮については、ピッタリなキャスティングとキャラ設定だったと思います。「女漁りをする嫌なOB」という役どころが出来ていたと思います。ちなみに柄本さんは個人的に好きな役者さんです。
原作では幾分か爽やかな見た目だった七宮ですが(文庫57頁)、映画ではOBとしての出目が登場しなかった分、映画の七宮は、原作における七宮と出目の2人分のキャラを背負っていましたね。
立浪については、原作では日焼けしていたはずですが(文庫57頁)、映画ではそうなっていませんでした。ストーリー上必要のない設定なので、この点に不満はないのですが。
管野唯人(演:池田鉄洋)
管野については、原作よりもキッチリとした感じになっていましたね。原作では「30歳前後のペンション管理人」だったので、もっとラフな格好をしているのかなと想像していたのですが、映画では「50歳前後の執事服に身を包んだ執事」になっていました。とはいえ、この程度の変更も、特に目くじらを立てるべきものではないのですが。
3.ストーリー展開
1)原作小説におけるストーリー展開
「食堂における葉村と明智の推理合戦」→「喫茶店における比留子との出会いと取引」→「ペンションへの旅と到着」→「廃墟にて映画撮影」→「ペンションにてバーベキュー」→「肝試し、ゾンビとの遭遇、ペンションへの立て籠もり」→「事件と謎解き」→「脱出」
2)映画のストーリー展開
「葉村と明智による食堂での調査依頼遂行」→「試験問題盗難事件における比留子との出会い」→「喫茶店における比留子との取引」→「ペンションへの旅と到着」→「バーベキュー」→「ロックフェスへの参加、ゾンビとの遭遇、ペンションへの立て籠もり」→「事件と謎解き」→「脱出」
3)斑目機関
まず言及しておかなければならないのは、原作ではサブストーリーとして描かれ事件の原因を作った斑目機関は、映画では一切言及されていないことです。
映画の尺の都合上、斑目機関に関わる部分はカットされたのだと思います。
4)比留子との出会い
上記1)と2)を比べたときにまず目につくのは、「食堂における葉村と明智の推理合戦」→「喫茶店における比留子との出会いと取引」という原作の流れと、「葉村と明智の食堂での調査依頼遂行」→「試験問題盗難事件における比留子との出会い」→「喫茶店における比留子との取引」という映画の流れの違いです。
映画では、葉村・明智と比留子との出会いを印象的にすべく、比留子の登場シーンが増えています。
まず、どちらも食堂にて、「白い長袖を着た女子大生」を巡って推理合戦をしているのですが、原作ではこの女子大生が赤の他人なのに対し、映画ではその人物は比留子になっていました。
そして、映画オリジナルとして、葉村と明智は、この食堂である調査依頼を遂行、不振に終わったのち、大学の廊下で試験問題盗難事件に遭遇します。明智はこの事件を解決できなかったのですが、代わりにそこに現れた比留子によって事件は解決されます。
このような流れの変更は、比留子との出会いと彼女の能力を印象付けるものになっています。
ところで、試験問題盗難事件の犯人は、食堂のあの席に葉村と明智を座らせておくのは良いとしても、廊下の人通りが少ないからと言って10分間も錠を開けようとドアの前で格闘するというのは、あまりにも幸運に頼り過ぎで、犯行方法としてはお粗末な気がします。
5)「廃墟にて映画撮影」と「ロックフェスへの参加」
原作では廃墟にて映画撮影をした場面では、斑目機関の手帳が発見されるのですが、映画では斑目機関が一切言及されないことに伴い、このシーンは全カットでした。
そのため、原作では、ペンションに泊ったのは映画研究部だったのですが、映画では、廃墟にて映画撮影を行わない関係上、ロックフェス研究会の合宿という設定に変更されていました。そして、ロックフェス研究会なので、合宿参加者はロックフェスに参加していました(原作では参加していません)。
6)立て籠もりの経緯の相違
バーベキュー後からペンションへの立て籠もりまでの流れも、原作と映画は異なります。原作では、バーベキュー後、肝試しをしている最中にゾンビに遭遇し、命からがら逃げてペンションへ立て籠もった、という流れなのに対し、映画では、バーベキュー後、ロックフェスに参加したところ、ゾンビと遭遇し、命からがら逃げてペンションへ立て籠もった、という流れになっています。
原作では、主要登場人物は、合宿開始時からフルメンバーが揃っていたのに対し、映画では、ロックフェスに参加したところ、ゾンビに遭遇して命からがらペンションに逃げ込んできた静原・高木・出目が途中で揃うことになります。映画では、彼ら3人はもともとは合宿参加者ではありませんでした。
4.舞台
1)ロックフェス
既に指摘したとおり、原作における合宿参加者はロックフェスに参加しなかったのに対し、映画における合宿参加者はロックフェスに参加しています。そのため、映画ではロックフェスのシーンがそれなりに映されました。カラフルかつ派手な映像と音楽となり、まさに映画向きな脚本構成でした。
原作ではロックフェスの参加者は5万人でしたが、映画ではそこまでの人数はいないようでした(せいぜい数千人規模?)。たしかに、最低限、ペンションを囲むだけのゾンビ(200人程度?)だけがいれば良いので、大規模なロックフェスにする必要はないとは言えます。
2)ペンション
ペンションは、原作では3階建てなのに対し、映画では2階建てでした。たしかに、映画では1階はすぐにゾンビに占拠されてしまいますから、そもそも1階をないものとして、3階建てを2階建てに変更しても話は成り立ちます。
映画では、客室ベランダ側(南側)は、崖になっていたので、そちら側にはゾンビは近づけない構造になっていましたが、1階の廊下側(北側)はゾンビが窓を叩くような構図になっていました。1階の宿泊者は非常に不安なはずです。
ところで、映画を観るに際して注目すべきは、ペンションの内部です。なんと、実在するどこかの洋館を使ったのではなく、紫湛荘の特殊な形を再現すべく、スタジオにセットを組んで再現したそうなんです!(https://shijinsou.jp/productionnote.html)
こんな構造の洋館がよく見つかったな~と映画を観ながら思っていたのですが、まさか、わざわざ予算を掛けてセットが組まれているとは思いませんでした。嬉しい誤算でした。
紫湛荘の構造はもちろん、その内装にも力が入れられていました。ゾンビ撃退のために活躍する武具類はもちろん、家具・調度類も本格ミステリらしい大変雰囲気のあるものでした。
ペンションについて一つ指摘するとすれば、劇中にペンションの図面をもっと高頻度で映さないと、映画観劇者はどこがどうなっているのか分からないのではないでしょうか?(私は当日の朝に原作小説を読んでいたのでしっかりと頭に入っていましたが)
5.トリック&ロジック
トリック&ロジックは、多少の省略はあったものの、基本的に原作小説に忠実でした(下手に改変すると辻褄合わせが大変になりますからね……)。以下、気付いたことを何点か記したいと思います。
1)外界との遮断
これはむしろ原作小説の感想なのですが、この作品の提示した「クローズド・サークル」の作り方は新奇なものでした。各所で絶賛されているように、「ゾンビに囲まれて外界から隔離される」という手法は言うまでもありませんが、「テロの可能性を考慮した政府が通信事業者に要請して通信を遮断した」という現代的な情報的隔離手段はもしかしたら前例がないのではないでしょうか。
そういえば、原作ではペンションにテレビがあったのに、映画では代わりにラジオとなったのは、「外界からの隔離」感をより強く演出するためでしょうか。
2)猶予時間
以下は、原作をしっかり振り返れていないし、映画もうろ覚えなので、間違った指摘かもしれません。
原作小説では、「ウイルスが傷口や粘膜を介して感染した場合、通常の脳機能を破壊されいわゆる錯乱状態〔ゾンビ〕になるまで、3ないし5時間かかるものと思われます」とされています(文庫287頁)。つまり、ゾンビに噛まれても――傷痕こそできますが傷が深くなければ――しばらくの間は人間として通常の活動を行える訳です。
ところが、映画では、この猶予時間が曖昧になっていたように思えます。注射によりゾンビウイルスに感染させられたロックフェス参加者が、そのままロックフェスに参加し続けることなく、「体調不良」として救護スペースにて休養するのは変です(傷痕はせいぜい注射痕だけです)。注射後、しばらく経ってから「体調不良」になり、さらにしばらく経ってからゾンビ化したというのでしょうか? しかし、何より、映画では、下松はほとんど猶予時間もなくゾンビ化していました。出目がゾンビ化までにしばらく時間がかかり、その間通常の人間活動をしていたのと比べると、即時的すぎます。
ということは、映画では、ゾンビ化までの時間には即時~数時間の幅があると設定変更したのでしょうか? しかし、そのように幅があると、ゾンビ化までの時間を基に進藤殺害事件の謎を解いた推理(および立浪殺害事件、七宮殺害事件のトリック)が成り立たなくなってしまいます。映像映えを優先したため、トリック&ロジックの厳密さを後退させたのでしょうか?
3)星川の部屋の荷物
原作では、肝試しのときに行方不明になった星川の部屋は、1階の管理人室がゾンビに占拠されてしまった管野が使用するために、星川の荷物を移動させる必要があり、恋人の進藤がこれを自室に移動させました(文庫137頁)。
しかし、映画では、特に何の説明もなく、進藤はあっさりと星川の荷物を自室に移動させました。重要な伏線なのに、特に理由の説明のない荷物移動は、伏線の隠し方として荒かったと思います(し、「新たな宿泊客が使うから星川の荷物を移動させてほしい」という会話を少し挟むだけで済むはずです)。
4)扉の開閉
映像化に際して何気に感動したのが、ロックされた扉の施錠・開錠方法です。
錠とドアガードを扉の外から開閉する古典的な方法は、ミステリではよく登場するトリックですが、実は映像として見たのは初めてでした。今度どこかで試してみたい、と思いましたが、不審者に思われたくないので止めておきます……。
5)頭のキズと二度の殺人
エレベーターで見つかった立浪の遺体ですが、映画では、パッと見、頭部にゾンビとしての致命傷が見えませんでした(私が見逃していただけなのか、そういう演出だったのかは、うろ覚えなので分かりませんが)。映画では「原作改変の結果、あの立浪の遺体はゾンビとしてはまだ生きているのでは!?」と冷や冷やしながら見ていたのです。が、結局、額にしっかりとした致命傷がありましたね。
よくよく考えれば、立浪に対する「二度の殺人」は、立浪殺害事件の肝ですから、当然に頭部に致命傷がなければおかしいはずです。
そして、上手い改変だなあと思ったのが、七宮に対する二度の殺人です。原作小説では遠藤沙知は立浪だけに弄ばれたのですが、映画では、立浪と七宮の2人に弄ばれたことになっていました。原作小説では七宮には一度の殺人しか行われなかったのですが、映画では、七宮と立浪のバランスをとるために、犯人の手により七宮は二度殺されました。立浪の殺し方に比べると、七宮の二度目の殺人は、特にトリック的なものは何もなかったのですが、扉が突破されそうになりゾンビが迫ってくるという犯人自身も予測し得ない状況下なら、そうなっても仕方なかったのかと思います(より好意的に解釈すれば、「彼女は七宮の二度の殺人についてきちんと策を用意していたが、ゾンビに扉を突破されそうになったことにより、咄嗟の判断であのように殺した」とも考えられます)。
6)九偉人の像
立浪殺害事件に際して犯人に使われた九偉人の像ですが、原作小説では青みがかった鈍色のブロンズ製の全身像(文庫69頁)だったのに対し、映画では、白色の石膏製の胸像(土台は木製)でした。そのため、映画では分かりやすい形で血痕が見つかってしまいました。犯人の凡ミスということでしょうね。
ところで、像をエレベーターまで運ぶ方法は、映画ではまったく説明されていませんでした。原作の説明もあっさりとしたものでしたが(文庫328頁)、映画しか見ていない人の中には疑問に思った方もいるのではいのでしょうか。それに、1mほどの全身像(原作)と土台付きの1m60cmほどの胸像(映画)が原作小説と同じ方法で運べるのか疑問です(そもそも、映画では土台ごとエレベーターに運び込まれていましたっけ? 記憶が曖昧です)。
7)トリック&ロジックの省略・改変
映画化に際するトリック&ロジックの最も重大な省略・改変は、①立浪の遺体発見に際するゾンビ突破時の比留子と高木の部屋への電話の省略と、②立浪殺害事件の犯人絞り込み方法の省略・改変です。
①については、省略されても原作を読んでいない人は戸惑うことはありません。「犯人は、動機とは無関係の人物がゾンビに襲われたとしても、しょうがないと考える人――そもそも殺人鬼――だった」と納得できますから。
②については、原作では、㋐音楽が鳴りやんだ際のアリバイと、㋑自室カードキーの使用の二段階で犯人が絞り込まれましたが、映画では、㋑は省略して㋐のみで犯人絞り込みがなされました(この辺はちょっと記憶が曖昧ですが)。そのため、爆音で音楽が流されている(そして一旦止まる)シーンは、原作読者にとっては露骨な伏線の提示でした。カードキーが室内の電気のスイッチになっていることの伏線って、ちゃんと提示されていましたっけ?
いずれにせよ、②についても、トリック&ロジックを単純化させたのは、映画観劇者の理解のためだと思われます。原作は、小説なので何度も立ち返って自分のペースで読み直すことが出来ますが、映画では、物語は自動的・強制的に進んで行き、見直すのにもお金がかかりますからね。
これは原作小説の話なのですが、②の㋑について、比留子は「どちらが先に部屋に入ったのか?」と問うことによって犯人を絞り込んでいました(文庫337頁)。しかし、よくよく考えてみれば、この絞り込み方法は、回答者の正直さに依存し過ぎていて回答の客観性が確保できません。両者が「自分が先に部屋に入った」もしくは「自分が後に部屋に入った」と主張すれば、比留子はそれぞれの主張の真否を確認しようがないのです。
そこで、活用されるのが、葉村の腕時計です。葉村が別の動機をもって嘘をついたことを論証するために、腕時計に関するエピソード(重元によって拾われた手帳、バーベキュー時に紛失した腕時計、葉村が嘘をついた理由……)が挿入されたのではないでしょうか。勝手に勘繰ると、原作者は、腕時計に関するエピソードを最初から用意していたのではなく、比留子の論証の厳密さに対する不足を感じ、後になってこのエピソードを挿入したのではないでしょうか。
6. おわりに
……とまあ、ここまで1万4000字以上にわたって長々と映画「屍人荘の殺人」の感想を書いてきました。久しぶりに劇場で見た映画に興奮してしまって、こんなにも長くなってしまいました。
映画を観ていない人は映画を観ることを、原作小説を読んでいない人は原作小説を読むことを、それぞれお勧めします!!(原作は3作目まで刊行されています)
ところで、この映画のメインキャストの一人、浜辺美波さんはドラマ「アリバイ崩し承ります」で主役を演じています。さらに、七宮役を演じた柄本時生さんも、検視官役としてレギュラー出演しています。
この作品は、同名の小説(大山誠一郎著、実業之日本社文庫)を原作としており、原作小説は2019年の「本格ミステリ・ベスト10」で第1位を獲得しています(前年の第1位は『屍人荘の殺人』でした)。『アリバイ崩し承ります』も、本格ミステリとして高評価な作品ですので、ぜひドラマ/原作をご覧になってはいかがですか?(この作品もAmazon Prime Videoで観られます)