「異世界ファンタジー」の定義問題――転生・転移モノを異世界ファンタジーと呼ぶことは文化破壊なのか?
(1)はじめに
先日、「『異世界ファンタジー』の意味を歪めることが問題である理由(追記あり)」と題する記事(2019年8月31日付〔翌9月1日午前8時最終閲覧〕。以下、この記事を「当該記事」、当該記事の作成者〔 id:srpglove さん〕を「筆者」と呼びます)を拝読させていただきました(上記リンク参照)。
しかも、私の記事へのリンク参照もして頂きました。今まで私の記事に対して一言程度のご意見を頂くことは多々あったのですが、その短さゆえにその趣旨の読解に難儀していたところ、このような長文で、しかもその趣旨も理解しやすい形でご意見をくださりありがとうございます(もちろん私が念頭に置かれているのかは不明ですが)。
そこで、この私の記事では、(既に2016年頃に私と同様の見解がTwitter上で見られたようなので、屋上屋を架すような部分もあるかと思いますが)せっかくの機会なので当該記事を読んで考えたことを記したいと思います。
ここでは、当該記事の主張に対して、疑問点を2つほど挙げたいと思います。
①「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」にどれほどの存在意義があるのか?
②「(新たな意味での)異世界ファンタジー」は果たして文化破壊なのか?
※最初に付言しておきますが、当該記事で語られた「異世界ファンタジー」の伝統的・本来的な意味における用法の歴史それ自体については、「そんな歴史なんてなかった!」などと言って異議を唱えるつもりはありません。この点については、同時代的に読書してきたとみられる筆者の主張を信頼しています。
なお、この記事を読まれる前に上記リンクから当該記事を一読しておくことをお勧めします。
(2)疑問点①――「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」にどれほどの存在意義があるのか?
まず、私の立場を表明しておきます。
ごく最近になって新たに出てきた「異世界ファンタジー」の用法というのは簡単に言うと、「基準となる世界(多くの場合は現実に近い世界)とは別の一つないし複数の世界が登場するファンタジー」もしくは、「RPG風の職業やステータスやスキルといった概念が存在するファンタジー」ということになります。これは言うまでもなく、現在web小説およびその書籍化(ラノベ)で流行している異世界転移・転生ファンタジー作品群を想定したものです。
その背後には若い世代の、
「ファンタジーが別の世界を舞台にするのは当たり前でしょ?なのにわざわざ『異世界』って付けてるんだから、転移転生のことに決まってるじゃない」
「『伝統的なファンタジー』が舞台にしてきた世界と、現在のなろう系ファンタジーが舞台にするステータスやスキルが存在するRPG風の世界は全く質が違う。『異世界』は後者にのみ適用すべきだ」
といった認識があるようです。
〔当該記事より引用〕
とありますが、前者の「転生・転移モノ」のみを私は「異世界ファンタジー」と呼んでいます(後者の要素を持つファンタジーについては「ゲームファンタジー」という概念が適当だと考えています)。詳しくは下記記事をご覧ください。
その上で、筆者は(前後者いずれにせよ)このような「(新たな意味での)異世界ファンタジー」概念は、「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」概念とは意味するところが異なり、「異世界ファンタジー」概念を新たな用法で使うことは「異世界ファンタジー」概念の伝統的・本来的な用法を無視した文化破壊行為だと主張されています。
それでは、この筆者は、「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」をどのように定義しているのでしょうか?
「異世界ファンタジー」は伝統的に、基準世界、転移転生、PRG要素の有無を問わず、この宇宙・この地球とは別の世界を舞台とするほぼ全てのファンタジーを指してきた言葉です。
〔当該記事より引用〕
ここで、このような「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」の名称の存在意義について疑問がわいてきます。
というのも、このような「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」と「ハイ・ファンタジー」の関係性について、両者はその意味するところが重複しているのではないでしょうか?
筆者の「ハイ・ファンタジー」の定義が分からないので確定的なことは言えませんが、「この宇宙・この地球とは別の世界を舞台とする」という要素からすれば、筆者のいう「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」は伝統的には「ハイ・ファンタジー」が指してきた領域を意味するのではないでしょうか?
もし両概念が重なるとすれば、「異世界ファンタジー」は「ハイ・ファンタジー」の「日本的な言い換え」ということになりますが、両概念の意味するところの名称としては、用法に無視できない対立のある日本独自の「異世界ファンタジー」よりも、国際的通用力のある「ハイ・ファンタジー」の方を使う方が適当だと思われます。
いずれにせよ、おそらく最もメジャーなファンタジーの下位ジャンル名称である「ハイ・ファンタジー」と「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」の関係については、筆者の書きぶりからすれば両者はかなり類似しているように見られるだけに、その異同についての説明(同義概念であるならば言い換えるべき理由)が是非とも欲しいところです。
(3)疑問点②――「(新たな意味での)異世界ファンタジー」は果たして文化破壊なのか?
ここでは、(2)で述べた疑問点①はひとまず措いておくことにして、ひとまず当該記事の主張通りに、以下の図式に従うことします。
この図式を前提として、筆者は以下のような危機感を表明されています。
もしも新しい用法が定着し、転移転生“だけ”、RPG要素を持つもの“だけ”が「異世界ファンタジー」とされる世の中になった場合。それら以外の本来の「異世界ファンタジー」は、決して「異世界ファンタジー」とは呼ばれなくなってしまうのです。〔中略〕これは単なる意味の限定に過ぎず、言葉の部分的な“死”なのです。
ただ、新定義の「異世界ファンタジー」を頑なに使い続ける方々にこれだけは言わせてもらいます。
ご自分が手を染めている行いが文化破壊、言葉に対する“殺人”に当たるという意識だけは持ってください。それが最低限の責任であり礼儀というものです。どうかよろしくお願いします。
〔当該記事より引用〕
一般論として、あるジャンルに含まれる作品例が多くなり、その領域内が雑多・多様になった場合に、この中から共通の特徴を有するもの同士をまとめて、これに対してサブジャンルとしての(または分離・独立させた上で新しいジャンルとしての)名称を与えることは、文学の歴史の上で繰り返し行われてきた文化的な行為のはずです。
この点については、筆者も同意して下さることかと思います。当該記事では以下のような記述もあります。
(「異世界ファンタジー」という既存のジャンル名の定義を無理やり捻じ曲げることにこだわらず素直に別の名前を考えた方がよっぽど手っ取り早いだろうとは思うけど)。
〔当該記事より引用〕
これら二つの記述からすれば、おそらく筆者の問題意識は、「Aというジャンル内で最近になって興隆した新たな(サブ)ジャンルに対して名称を付ける際に、(この新規部分に対して新たにBという名称が与えられたのではなく)新規部分の方がAという名称を名乗ったために、ジャンル全体(旧A)を指す名称が無くなった(その結果、ジャンル全体(旧A)にはCという新たな名称を付けざるを得なくなる)」ことにあるのではないかと思います。
「異世界ファンタジー」についてこのようなことが起こるのは、「(伝統的・本来的な意味での)異世界ファンタジー」概念に慣れ親しんできた方達にとっては、まさに「僭奪」とでも言うべき事態なのかもしれません。つまり、ジャンル全体についてAの名称がそのまま維持されたり、旧Aから新規部分を控除した残余部分――旧Aの伝統的・本来的部分――が新Aを名乗ったりするのは正統な名称として認められるが、新規部分――最近旧Aで興隆した若輩者――が新Aを名乗るのは僭称のため許せない、といった感じなのかもしれません。
しかし、「異世界ファンタジー」の問題に対するこのような厳格な姿勢は、果たして唯一絶対の文化的行為なのでしょうか? 果たして「(新たな意味での)異世界ファンタジー」は議論の余地もない文化破壊行為なのでしょうか?
たしかに、「異世界ファンタジー」概念の意味が変遷した結果として、当該記事が警告するように、欠落する部分――名称が失われる部分――が生じ得ること自体は首肯できます。しかし、その欠落部分を指す名称がなければ、また新たに考えればよいではないか、とも思うのです。これもまた、責任・礼儀のある文化的行為ではないでしょうか。(筆者の好みではないかもしれませんが)「本格」とか「伝統的」とか「本来的」など、おあつらえ向きの言葉はあると思います。
一般的に言って、ある概念の持つ意味の変遷は不可避な面があります。本来の意味に厳格にこだわることも文化的行為の一つだとは思いますが、変遷の結果として生まれた齟齬の部分に新たな名称を与えるという発想を否定することまでも文化的行為だとは思いません。
「死語」という言葉があるように、通常の言語活動に“死”はつきものです。ある概念を指す言葉がなくなって困るのなら、「新語」「造語」を“生み出す”のもまた通常の言語活動の一環ではないでしょうか。
(4)おわりに――ジャンル分けをする意味について
そもそも、人々(作者・出版社・読者など)は、なぜジャンル分けという行為をするのでしょうか? あるいは、「ファンタジー おすすめ」と検索するように、なぜジャンルを利用するのでしょうか?
その最たる答えの一つとしては、「読者が探したい本を見つけられるようにするため」といった即物的理由が挙げられると思われます。つまり、ジャンル分けという行為は、読者一般に対して便宜を図る行為であって、それを超えて、ジャンル分けの正義や真理を探究することは――文学研究上の学術的意義はありますが――それが読者一般に支持されない限りは、即物性という点においてあまり意味がないと思うのです(そもそも、過去・現在・未来にかけて多種多様なファンタジーが存在する中では、完璧なジャンル分けなんてものは期待できませんから、どこかで割り切る必要があると思われます)。
これを踏まえると、相容れないジャンル分けの方法が並立しているとき、いずれが優れているかを判断する際に重要になるのは、「どのジャンル分けの方法が読者に支持されているのか」という――これもまた短絡的な――指標になると考えられます。
この点、「異世界ファンタジー」を巡るジャンル分けの方法については、その概念把握について混乱・対立があり、おそらく、どの考え方が多数の支持を集めているかは分からない状況です(少なくとも、他を圧倒的に差し置くような支配的・優越的な見解はないはずです)。
そのような状況下において、当該記事を書いてくださった筆者や私のような者が、混乱の所在を明らかにし、概念を整理し、「これなら探したい本が見つけやすくなる」というジャンル分けを行うことは、読者が支持すべきジャンル分けの方法の選択肢を提示するという点において意義のある行為なのかなあと思うところです。
なお、この記事において、私はポジショントークのようなものをしたので、もしかしたら私のジャンル分けの方法について誤解のある方がいるかもしれません。下記記事では私のジャンル分けの方法について語っているので、まだ読んでいない方は是非ご覧ください!