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光源氏計画エンディングの倫理的許容性を考える――「養父と養娘の結婚」問題

 

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若紫

(1)そもそも「光源氏計画」とは?

 

そもそも「光源氏計画」とは?について、以下のサイトが上手くまとめてあったので引用します。

自分が慕う年下の人物を自分にとって理想的な「大人の女性」に育てようとする計画のこと。そんな思惑や様子を描いた作品に付けられるタグ。 元ネタは世界最古の長編小説と言われる紫式部の古典『源氏物語』。 義母の藤壺を愛していた光源氏が、藤壺と似ていた美少女・若紫に惚れ、彼女を自ら養育して美しい女性に成長させた。そしてある夜、二人は結ばれ、光源氏の妻「紫の上」となった。 〔中略〕現代では主に自分を慕う子供や後輩を、自分の理想の立派な大人に育てる意味で使われる。 その慕う相手は自分にとって年下で、ほとんどが男が年下の女子に対してすることに使われ、年上女性が年下男子に対しての場合、「逆光源氏計画」と呼ぶ。

 光源氏計画 (ひかるげんじけいかく)とは【ピクシブ百科事典】

 

なお、便宜上、ここからは光源氏計画における年上男性を「養父」、年下の女子を「養娘」と呼ぶことにします。

 

ところで、光源氏の場合は、そもそも若紫と結婚することを意図として彼女を養育し始めたのですが、そうではなく、養娘と結婚することを当初から意図しなくても、結果的に結婚した場合もこの記事においては光源氏計画エンディング」に含め、これら両方を考察対象にしたいと思います。

 

さて、ライトノベルや漫画などのフィクションにおいては、この手の光源氏計画エンディングが散見されますが、私自身はこの手の作品を読んだとき直感的にどう思ったのかというと、「う~ん。せいぜいセカンドベストかなあ」でした。つまり、ベストなエンディングは「養娘が同世代の他の男と結婚するのを涙ながらに見送る」であり、光源氏計画エンディングはそれに及ぶことはない、と考えています。とはいえ、「こんなのありえない!!作者は頭がおかしい!!」とまで強く否定するつもりはありません。「エンディングの一つとしてはアリっちゃアリなのかなあ」みたいな気持ちなのです。

 

そこで、このような中途半端な気持ちを分析するために、この記事を書こうと思ったのです。

 

 

(2)法律から考える光源氏計画の社会的許容性

 

光源氏計画エンディングに対して一定の忌避感が生まれるのは、そこに何らかの道徳的・倫理的な問題があるのではないか?と直感的に感じてしまうからだと思います。

 

それでは、ここでいう道徳・倫理とはいったいなんなのでしょうか? これを特定・定義する作業は本来難しいことなのかもしれませんが、今回は法律という道具が使えそうです。

 

「法は倫理の最小限」という言葉があるように、社会に数ある規範(ルール)のうち、最低限度の倫理規範を国家権力によって強制的に守らせようとする手段が法律である、という考え方があります。言い換えれば、法律はその社会で広く合意が得られている倫理規範なのです。たとえば、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と殺人罪について定める刑法199条は、「人を殺してはならない」という社会倫理規範の現れだと言えます。

 

翻って光源氏計画エンディングについて考えてみましょう。

 

まず、実の親子については、法律は当然に結婚を禁じています。民法734条1項は、「直系血族又は三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」と定めています(太字部分が関係する箇所です)。要するに、この規定の太字部分は、親子間や祖父母孫間といった上下に血のつながりのある者同士の結婚を禁じています。なぜこのような規定があるのかと言うと、優生学上の理由社会倫理上の理由があると言われています。

 

それでは、血縁上(生物学上)のつながりのない養親子ではどうでしょうか? この場合、養父と養娘が結婚して子供をもうけたとしても優生学上の問題は生じません。しかし、「生みの親と育ての親」という言葉があるように、親子関係は、血縁関係のみならず養育関係によっても特徴づけられます

 

この点、民法736条は、「養子若しくはその配偶者又は養子の直系卑属若しくはその配偶者と養親又はその直系尊属との間では、第729条の規定により親族関係が終了した後でも、婚姻をすることができない」と定めています(太字部分が関係する箇所です)。要するに、この規定は、養親子関係にある者同士は結婚してはならない、と言っているのです。この養親子間には血縁上のつながりはありませんから、この禁止理由は社会倫理上の理由のみに求められます。とすると、この社会においては、「(血縁関係の有無にかかわらず)親子関係=養育関係にある者同士は結婚してはならない」という倫理規範があると言えそうです

 

以上をまとめると、この日本社会においては、光源氏計画エンディングに対するアンチテーゼとしての社会倫理規範が存在することが分かりました。

 

 

(3)それでも光源氏計画エンディングは擁護可能か?

 

ここまでの一応の結論は、「光源氏計画エンディングは反倫理的である」というものでしたが、それでもなおこれを擁護すべき理由はあるのでしょうか?

 

私としては、いくつかの観点からこれを擁護できる可能性があると思います(擁護すべき、とまでは強く言える自信はありませんが)。

 

第一に、現実における社会倫理規範の存在を認めつつ、光源氏計画エンディングはあくまでフィクションだとして割り切る方法があります。しかし、この方法では、創作上のことだから放っておいてくれと社会に主張できる一方、社会の側からは社会倫理規範に反する作品だとラベリングされてしまいます。そこで、第二の方法が考えられます。

 

第二は、光源氏計画エンディングに対するアンチテーゼとしての社会倫理規範の強度や実在性に疑義を呈する方法です。

光源氏計画エンディングは賛否の分かれる方法ですが、たしかに一定数の賛成派もいるのです。そこで、「一定の賛成を集められるとすれば、そもそも問題となる社会倫理規範は存在しないのではないか? 存在するとしても強い確証をもってそれを主張することはできないのではないか?」という疑問が生まれるのは当然です。

そもそも社会倫理規範は流動的ですし、同様に法律の内容も一定不変ではありません(たとえば、戦前戦後で家族制度は大きく変わりましたし、最近では同性婚の実現可能性だってあります)。

また、「親子は結婚してはならない」という規範の中核として想定されているのは実親子であって、規範の周辺部である養親子(疑似親子)については流動的であり得るとも言えそうです(たとえば、近親婚のうち、いとこ婚の可否は国・地域や時代によって変わります)。

 

 

(4)おわりに

 

ここまでは、光源氏計画エンディングの許容性について、その形式的理由――この社会にそれを禁止する規範はあるのか――しか考察できませんでした。その規範の背景にある実質的理由――その規範はなぜ存在するのか――にまでは踏み込めませんでした(むしろ多くの読者はこちらの議論を期待してこの記事を読み始めたのではないかと思います)。が、このような論法もあるのだということを知って頂ければ、(賛否どちらの立場にせよ)光源氏計画エンディングに対する視点が一つ増えたのではないかと思います。